とはいっても、恋愛の話ではなく、
とある大学の、とある学部の学位伝達式式辞のお話です。
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/message/oration/
もちろん、「その式辞が実に無粋で…」というわけじゃありません。
野暮で無粋なのは、これからの私のお話です。
………
………
たしかに、
フリードリヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥストラ』にあります。
第1部 第17章 「創造者の道について」
第30行:
きみは、きみ自身の炎のなかで、
自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。
きみがまず灰になっていなかったら、
どうしてきみは新しくなることができよう!(吉沢伝三郎訳)
この言葉を受けて、石井先生はこのようにおっしゃっています。
「皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。」
「もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラツゥストゥラ』(引用者注― 先ほどの『ツァラトゥストラ』と表記がちがいますが、HP原稿のままです)に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。」
―はい、調べました。
確かにありました!
燃えます! 完全燃焼します!!
ん??
そんなに単純?
この式辞の中心は、
世に広く知られている「大河内総長の式辞」、
「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」の真偽をめぐる話です。
実際に言ったの? 言わなかったの?
この言葉の前後は? 出典は? 原典は?
では、
同じように先程のニーチェの言葉の前後を調べてみましょう。
29行:きみはきみ自身にとって、
異端者であり、
魔女であり、
予言者であり、
阿呆であり、
懐疑家であり、
不浄の者であり、
悪漢であるだろう。
31行:孤独な者よ、
きみは愛する者の道を歩み行く。
きみは自分自身を愛し、
そのゆえに、
ただ愛する者たちだけが軽蔑するような仕方で、
自分を軽蔑するのだ。
32行目:愛する者が創造しようと欲するのは、
彼が軽蔑するからなのだ!
自分が愛するものを、
まさしく軽蔑することを余儀なくされなかった者が、
愛について何を知ろう!
さて、
「皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。」
これを<悔いの残らないよう完全燃焼しなさい!的な陳腐なメッセージ>だと
受け取っていいのでしょうか?
「私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。」
石井先生は冗談めかして簡単におっしゃっていますが、
人は「新しい自分」を知る途上で、
今の自分、
古い自分、
変えるべき自分、
阿呆で汚い魔女や悪漢である自分、
つまり
「七つの悪魔」(28行)である自分
に直面しなければならないのです。
自分の中の醜悪を知り、
自分自身を軽蔑し、
人から嘲笑されながらも、
それでもなお、
自分を信じ愛し続け、
新しい自分自身(ニーチェっぽく言うと「超人」ですか?)に変わるのだ!
という信念を決して失わず、
日々精進しつづけなさい。
式場で聞いている限りでは、
<悔いを残さぬよう完全燃焼しよう!>と受け取れるこのメッセージですが、
石井先生がおっしゃるように原典をあたってみると、
それが実に厳しいメッセージであったことがわかる。
そしてこれこそ、石井先生「が仕掛けた最後の冗談」、
(笑えない)ユーモアなのだと思うのですが……
どうでしょう?
重岡先生より
P.S.
ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(ニーチェが強く影響を受けていると思われる)の「聖なる憧れ」という詩や、
同じゲーテの『ファウスト』「魔女の厨」(悪魔とともにあれば、炎など恐るるに足らぬ)、
芥川龍之介『地獄変』(『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」のほうが短くて読みやすいかも)
を読んでみてください。
ツァラトゥストラ(=石井先生)の言葉を、もっと深く、もっと広げてくれるはずです。