「あの子はとても優しい子でねぇ」
………
「とても優しい人でした」
………
これから1か月のあいだに、こんな話を何回、何十回と耳にすることになるでしょう。戦後70年、今年はとくに多いかもしれません。
「結婚するなら優しい人がいい」とか「優しい人間に成長して欲しい」とか言ったり言わなかったりしますけど、どうなんでしょう、「優しい」って、積極的に賞賛すべき性格ですか??
和英電子辞書で検索すると…
kind、kindly、gentle、mild、tender、tenderhearted、sweetなどと出てきます(『ウイズダム和英辞典』)。でも、どれもみな「優しい」とはどこかズレてるように思うんですよね~。
なんてったって、「優しい」は、ニンベンにウレう です。
「憂」の原字は、「人が静々としなやかなしぐさをするさまを描いた象形文字」だそうで、
今の「憂」の字は、その原字に「心を添えた会意文字で、心が沈んだしなやかな姿を示す」のだそうです。
そして問題の「優」は、
「<人+憂>で、静かにふるまう俳優の姿」
だと辞書にあります(『漢字源』)。
まさに、俳優高倉健が演じる美学。
または、最近韓国で話題になった『憂国』、あの憂国の士たち(しなやかだったかどうか疑問が残りますけど)。
「優しい」っていうのは、日本人に染みついている、「自己犠牲を含んだひとつの美学」なんですね、きっと。
でも、「優しい」って「悲しい」ですよね。違います?「優しくする側」も「優しくされた側」も。だって自分を犠牲にするわけですから。相手の犠牲の上に今の自分の幸せ、まあ幸せとは言えなくても、五体満足に暮らせている状況があるんですから。満面の笑み、というわけにはいきませんよね。どことなく陰のあるさみしい笑みです。
でも、ヤサシサってこういうものだけじゃないですよね?
もっと根源的というか、肉体的というか、そんなヤサシサもありますよね。
たとえば、
前の席の人がペンケースを落としたときに、とっさに席を立ち、散らばった鉛筆や定規消しゴムなどを拾ってあげた。
たとえば、
転んでしまった人に、思わず「大丈夫ですか?」と声をかけた。
たとえば、
後ろから来る人が視界に入ったので、ふと立ち止まってコンビニの扉を少し手で支えていた。
こんな「思わず知らず」「体が動いてしまう」「やさしさ」、
これだって「優しさ」と同じで、その人の生きざまをあらわしているのには違いありません。けれど、「優しさ」は「美学」としての「強制」というか「意識」を強く感じさせるのに、「やさしさ」はそれを感じさせない。むしろ、無意識のうちにその人から「にじみでる」ものであるように思います。そして「やさしさ」を受けた側も、自然に「ありがとう」と微笑み返すことができる。
そんな「やさしさ」に溢れた世界……
というのはユートピアなんでしょうか?
重岡先生より