6年生の国語授業で「学ぶ」ことの意味を考える文章を扱いました。
とでも難しい文章で、子どもたちは音を上げそうなものでしたが、次のような内容でした。
ある事がらを学ぶ場合、学びはじめる時点では、今から学ぶ内容の意味や有用性は分からない、学びは「順逆が狂った仕方」で構造化されている、と。
学んだことがどのように役に立つのかワカラナイからこそ学ぶ必要があるということです。
続きます。
本来「学ぶ力」とは「これを勉強すると、こういう『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられているものではない、けれども今の日本は、学ぶことによって得られる『いいこと』をインセンティブとして学びが形成されている。
学ぶ前には、当然その意義や有用性が分からないはずなのに、学ぶとこんな『いいこと』があると明示し、その『いいこと』のみを追い求めるように仕向けることが、日本の学ぶ力を衰えさせているのではないか、と。
上記は大雑把な要約ですし、著作の本旨ではありませんが、子どもといっしょに読んでいてとても気になりましたのでここに挙げさせてもらいました。
読みながら、フッと思いついたのは
「僕は、大人になっても海外に住むことはない。英語を勉強することに意味があるとは思わない」とか「こんな方程式解けて、将来役に立つの?」という子どもからのやらないことの言い訳。
A)勉強することによって手に入る『いいこと』をいっぱい聞かされ
B)自分が現在持っているもので手に入れることのできる『いいもの』を探すことが『勉強』だと刷り込まれ
C)その『いいこと』が手に入る見込みがないものは手を出さない
という思考回路になっているのかな、と思ってしまいました。
そして、これも小学生と読んだ物語の一節を急に思い出しました。
進路を決めなければならない中3生が思い悩む――失敗しない進路選択をどのようにしたらよいか悩む――場面。主人公は、失敗(=『いいこと』を得られない)を恐れます。
そんな時、「うだうだ考えたって、やるっきゃないでしょ。」と
新しく学ぶことの意図や有用性を本能的(先駆的)に感じて、『やるっきゃない』。

昨火曜日から、錬成クラスで 今年最初の『月例テスト』が行われています。
村上先生より